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アッベマ



吾妻兼治郎



アデイェミ



アデイェミ



アトランタ1945+50



アトランタ1945+50



アトリエ前の庭



アドゴ



アドラー



アナツイ



アナパ



アバカノヴィッチ



アバロス



アフォラビ



アフリカセイ



アブウー



アブストラクション・クレアション



アブドゥラマーヌ



阿部展也



アベールディス


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フェルディナント・アンドリ

アンドリは、ウィーン美術アカデミーでユリウス・ヴィクトール・ベルガーと、エドゥアルド・パイトナー・フォン・リヒテンフェルスに、1892年にはカールスルーエのアカデミーでカスパー・リッターとクラウスマイヤーに師事する。1898年から1905年までは、多くの展覧会に参加し、1899年から1909年まではウィーン分離派の会員であった。1901年には、第10回分離派展のポスター、1902年の第14回展(ベートーヴェン/クリンガー展)では絵画「男の勇気と戦いの喜び」、1903年までは「ヴェル・サクルム(1900年、第19号のカバーなど)」の挿画やイラスト。1904年には、コーピッシュの詩の為のグラフィック作品(ゲルラッハス・ユーゲントブッヒャライ、第13巻)、ベルリンでのウィーン展の際に展示された玩具や工芸品の制作。同年、米国セントルイスでの万国博覧会、オーストリア館の展示コミッショナーを務める。しかしながら、ウィーン分離派が企画した(万国博での)展覧会は開催されず、このプロジェクトのために衝突が起きることとなり、カール・モルをめぐっての争いで、クリムト・グループが分離派を脱退することになる。1905年分離派会長になり、オッタクリークのハイリッヒ・ガイスト教会祭壇壁画のための彫刻とモザイクをデザイン、1909年、ツァッヒェルハウスの聖ミヒャエル像制作。1914年から1918年までは、戦争画家。1920年から1939年までは、ウィーン美術アカデミー教授、退官後も名誉教授として1945年まで教える。1950年には、ザンクト・ペルテン市が彼の作品を引き取るかわりに終身年金を与え、フェルディナンド・アンドリ美術館を設立している。同美術館には彼の殆んどの作品が保管されている。


カテゴリー:作家
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ダダとは?【 美術用語 】

第一次大戦中、ヨーロッパおよびアメリカに起った運動。1916年、チューリヒのキャバレ・ヴォルテールで、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプらが、辞典の一頁から偶然に拾った言葉「ダダ」を用いた。大戦の不安のなかで、合理主義文明とその社会体制を否定し、破壊しようという運動で、おびただしいデモンストレーションとスキャンダルを通じて「なにも意味しない」虚無のダダを唱えた。この否定の精神は、ドイツではヒュルゼンベック、グロスらにより政治的色彩を濃くした。またニューヨークでマルセル・デュシャン、ピカビアらが写真のコラージュや、レティ・メイドのオブジェを使った時期をニューヨーク・ダダと呼ぶが、デュシャンの芸術そのものへの否定精神(反芸術)は、第二次大戦後の若い作家に受け継がれた。さらに1919年にケルンでエルンストアルプらが起したダダ運動は、偶然性や意識下の世界を通じて、のちにシュルレアリスム抽象表現主義への道をひらいた。

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