アンドリは、ウィーン美術
アカデミーでユリウス・ヴィクトール・
ベルガーと、エドゥアルド・パイトナー・フォン・リヒテンフェルスに、1892年には
カールスルーエの
アカデミーでカスパー・リッターと
クラウス・
マイヤーに師事する。1898年から1905年までは、多くの展覧会に参加し、1899年から1909年まではウィーン
分離派の会員であった。1901年には、第10回
分離派展のポスター、1902年の第14回展(ベートーヴェン/
クリンガー展)では絵画「男の勇気と戦いの喜び」、1903年までは「ヴェル・サクルム(1900年、第19号のカバーなど)」の挿画やイラスト。1904年には、コーピッシュの詩の為のグラフィック作品(
ゲルラッハス・ユーゲントブッヒャライ、第13巻)、
ベルリンでのウィーン展の際に展示された玩具や工芸品の制作。同年、米国セント
ルイスでの万国博覧会、オーストリア館の展示コミッショナーを務める。しかしながら、ウィーン
分離派が企画した(万国博での)展覧会は開催されず、このプロジェクトのために衝突が起きることとなり、
カール・モルをめぐっての争いで、
クリムト・グループが
分離派を脱退することになる。1905年
分離派会長になり、オッタクリークのハイリッヒ・ガイスト教会祭壇壁画のための彫刻とモザイクをデザイン、1909年、ツァッヒェルハウスの聖ミヒャエル像制作。1914年から1918年までは、戦争画家。1920年から1939年までは、ウィーン美術
アカデミー教授、退官後も名誉教授として1945年まで教える。1950年には、ザンクト・ペルテン市が彼の作品を引き取るかわりに終身年金を与え、フェルディナンド・
アンドリ美術館を設立している。同美術館には彼の殆んどの作品が保管されている。