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わきた かず 脇田和
1908年東京都に生まれる。青山学院を中退し、1924年ドイツに留学。1930年ベルリン国立美術学校を卒業。帰国後は光風会展や帝国美術院展、第二部会展などに出品し、光風会賞、第二部会展特選、昭和洋画奨励受賞などを受賞。1936年新制作派協会の結成に参加し、以降、新制作派展を主要な活動の場とした。戦後は内外の国際展にも度々出品し、1955年第3回日本国際美術展最優秀賞、1956年第1回グッゲンハイム美術賞日本国内賞など受賞を重ねた。1964年からは東京藝術大学助教授(68年から教授)として後進の指導にあたり、1998年に文化功労者に選定された。長野県軽井沢町に脇田美術館が設けられている。
カテゴリー:作家
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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