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わきた かず 脇田和
1908年東京都に生まれる。青山学院を中退し、1924年ドイツに留学。1930年ベルリン国立美術学校を卒業。帰国後は光風会展や帝国美術院展、第二部会展などに出品し、光風会賞、第二部会展特選、昭和洋画奨励受賞などを受賞。1936年新制作派協会の結成に参加し、以降、新制作派展を主要な活動の場とした。戦後は内外の国際展にも度々出品し、1955年第3回日本国際美術展最優秀賞、1956年第1回グッゲンハイム美術賞日本国内賞など受賞を重ねた。1964年からは東京藝術大学助教授(68年から教授)として後進の指導にあたり、1998年に文化功労者に選定された。長野県軽井沢町に脇田美術館が設けられている。
カテゴリー:作家
構成主義とは?【 美術用語 】 ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開された芸術運動。ウラジーミル・タトリンが1913年に始めた鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのを発端とする。現実の素材による非再現的構成という造形理念は、ロドチェンコなど多くの共鳴者を得て、構成主義という運動に発展し、モスクワの前衛美術界を、マレーヴィチの提唱したシュプレマティズム(絶対主義)と二分した。革命後は、革命政府の美術政策の推進勢力となり、絵画、彫刻をブルジョワ芸術として否定するとともに、鉄・ガラスなどの工業生産物の使用と社会的効用性を主張し、建築・デザイン・舞台美術などの分野にも拡がり、1920年には造形芸術の各分野をほとんど支配した。運動としては1919年頃から効用派と純粋造形派とに分裂し、純粋造形派のペヴスナー、ガボらは運動を離れ、効用派もその後産業との一体化を推進したが1930年代に政府より批判され終結したが、国外の抽象芸術運動に与えた影響は大きい。タトリンの「第3インターナショナル記念塔(模型)」はその代表的作品。 |
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