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ばうあー レオポルト・バウアー
1890年に、ウィーン美術アカデミーを修了。カール・フォン・ハーゼナウアー及びオットー・ヴァーグナーに師事する。イタリア、ドイツ、パリへの旅行奨学金を受ける。1899年に、ウィーンのシュロル&Co.社にて画期的な建築スケッチ集を出版。1900年、ブリュンのハウプト男爵の居宅を建築、現代建築の模範とすべき実例とみなされている。同年、ウィーン分離派のメンバーとなり、同展覧会(第8回、10回、14回、15回、17回、21回、22回展)の室内設計及び室内デザインに貢献する。第17回、第21回展のカタログデザイン。1900年から1902年に、「ヴェル・サクルム」(第3〜第5年次)の本装飾及びデザイン。1913年から単科大学で建築科の教授となる。1923年から25年、オーストリア国立銀行の建築。レオポルト・バウアーは、この世紀変換期における最も優れたウィーンの建築家の一人に数えられる。グラフィック作家としての彼の作品への評価は、「ヴェル・サクルム」に頼らざるを得ない。彼の死後、その遺作はアルベルティーナの所有となったが、戦時中にはっきりしない理由で紛失している。「ヴェル・サクルム」は、彼の、幾つかの非凡な本装飾の為のデザインを含んでおり、それらは優雅さと素朴さとで抜きん出たものである。
カテゴリー:作家
パスキンとは?【 作家名 】 1885年ブルガリアに生まれる。1930年没する。本名はユリウス・ピンカス。父はユダヤ系スペイン人、母はイタリア人。ウィーンで絵を学んだ後、1904年、ミュンヘンの諷刺雑誌『ジンプリツィスムス』の専属契約画家となり、この時から本名のピンカスではなくパスキンと名乗る。1905年パリに行き、エコール・ド・パリの仲間入りをする。1914年から20年まではアメリカで暮らし、この時にアメリカ国籍を得る。その後ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、キューバ、アルジェリア、イタリア、スペイン等、各地を放浪した。1930年、パリのジョルジュ・プティ画廊での個展前夜に自殺。淡彩と無駄のない線によって描かれた彼独特の女性像は、ゆらめくような透明感を持っており、エロチックな憂愁を帯びている。退廃的なその作品には、新しい発見や革新性は見当らないが、彼の鋭く神経質なまでの危うい感受性が表現されている。 |
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