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ばいろす フランツ・フォン・バイロス
フォン・バイロス侯爵の雅号はシュワジー・ド・コナン。一族は、カール5世の時代にオーストリアに移ったスペイン貴族。ウィーン美術学校画塾で学んだ(クリスティアン・グリーペンケールに師事)後、表向きは肖像画家兼蔵書票の挿絵画家という道を選んだ(1881年迄ウィーンで仕事をしたアルフォンス・ミューシャの影響)。一時的にヨハン・シュトラウスの家族と結びつく(フォン・バイロスは同家の娘アリスの最初の配偶者)。彼は、今日ではむしろきわめて限られた好事家仲間でしか入手できないあらゆる官能文学の挿絵画家(フェリシアン・ロープやオーブレ・ベルズレーになぞらえられる)としての仕事で知られている(ウィーン市立・国立図書館の「スクレタ」コレクションの主な蔵書は、1906年コーヒー商人エドゥアール・ニコラのコレクションから取得したもので構成され、750点を数えた)。フォン・バイロスが挿絵を描いた書物の題名のいくつかをあげると、クレランドの「ファニーヒル物語(2巻、ウィーン、1906年)」、「FLETTRETTE’S PARPLE SNAILS(ベルリン 1913年)」がある。同時代のクリムトやシーレの官能的なデッサンや挿絵とは異なり(クリムトはたとえば1907年に「リュシアン・ド・サモザットの遊び女の対話」マックス・ブレ訳の挿絵を描いている)、フォン・バイロスの描く恋愛の場面は、想像された18世紀のものであり、ロココとユーゲント様式をないまぜにしたアラベスク世界である。バイロスは死の3年前にウィーンで出版されたダンテの神曲に約2000点に及ぶデッサンを描いている(内、60点は全頁大で彩色) 。
カテゴリー:作家
高橋由一とは?【 作家名 】 1828年東京都に生まれる。1862年蕃書調書画学局に入り、川上冬崖の指導をうけ、画学心得となる。1866年横浜でワーグマンの指導を受ける。翌年パリ万国博覧会に洋風画を出品する。1871年大学南校画学掛教官となり、1873年天絵楼を創設する。1876年フォンタネージの指導を受け、翌年第1回内国勧業博覧会出品、三等賞受賞。1879年画塾を拡張、天絵学舎と改める。1881年県令三島通庸の委嘱で山形県下新道の油彩画を描く。1884年天絵学舎を廃校、県令三島通庸の委嘱で栃木、福島、山形の新道を写生する。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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