![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
べーらー ハンス・ベーラー
切り絵作家オットー・ベーラーの息子。1902年、ウィーン美術アカデミーに入学、3日後に退学、ヤシュケ絵画学校に転校。1908年、ウィーン分離派の春季展覧会でデビュー、クンストシャウ、ヤークト(狩猟)展の各展覧会に出品。1913年から1914年、南米、西インド諸島、ニューヨークに旅行。1915年、コペンハーゲンおよびストックホルムで展覧会。1928年から1930年、ウィーン、ベルリン、ハンブルクおよびミュンヒェンで展覧会。1930年、アルトゥール・レスターの最初の重要なモノグラフが発刊。1930から1932年、北アフリカおよびスペインに旅行。1936年、ニューヨークへ移住、アメリカ国民になる。ニューヨークのアーチスト・ギャラリーおよびマサチューセッツ州ケンブリッジのブッシュ・ライジンガー美術館で個展。1937年、デッサン作品に対し、オーストリア共和国の功労賞を獲得。1937年から1955年、米国、ウィーンの一連の展覧会、およびサンパウロ・ビエンナーレに出品。1950年、ウィーンに戻る。1954年、ウィーン市の芸術賞を受賞。
カテゴリー:作家
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||