ぐるぐるアートワード
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赤い少女



赤い服のセザンヌ婦人



赤い枕で眠る女



赤い闇6



赤城泰舒



アカシア



赤土山



アカデミー



赤紫の花瓶



〈赤を見ることができない〉



亞艦来浦図











秋岡美帆



秋草小禽図



秋草花図



秋野不矩



秋の木葉



秋山祐徳太子



諦め


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えんげるはると

ヨーゼフ・エンゲルハルト

ウィーン工科大学およびウィーン美術アカデミーで建築を、学ぶ。1883年から1888年、ミュンヒェン美術アカデミーでカスパー・ヨハン・ヘルテリッヒおよびルートヴィッヒ・フォン・レフツに師事。1887年、画家ヴィルヘルム・ベルナツィークおよび彫刻家アルトゥール・シュトラセルとともに自然主義者連盟の設立を計画。1888年、キュンストラーハウスの美術展に初めて出品。1889年から1893年、パリおよびスペインに旅行、留学。1896年、キュンストラーハウスから脱退。1897年、ウィーン分離派の創設に参加。1896年から1898年、’芸術家キャンペーン’を引き受け、フランス、ベルギーおよびイギリスを巡回、各国の芸術家にウィーン分離派への参加を呼び掛ける。1899年、ウィーン分離派の代表になる。この間、多数の展覧会に出品、「ヴェル・サクルム」のためにリトグラフ、デッサンを制作。1900年、ベルリン分離派外国人会員に指名される。パリ展で銅賞を獲得。中央墓地設計の審査委員に任命される。ウィーン国民舞台を演出。1902年、クリムトとともにウィーン分離派の代表としてブラームス記念像制作の審査委員を務める。1903年、彫像に向かう。1904年、セントルイス万国博覧会に出品のインタルジア連作「メルリンザーゲ」で表彰を受ける。クリムトグループが分離派から脱退した後、宗教美術展を開催。1909年、ギリシャに研究旅行。分離派で最初の総合展。1910年、中央墓地のための墓碑(特に画家ルドルフ・フォン・アルト、歌手デムート、国民詩人エドゥアルト・ペツル等)を設計。1912年、コーゲル城のためのフレスコ画をデザイン。1912年から1913年、エジプトおよびデンマークに研究旅行。1914年から1915年、ガリチアおよびイタリアで戦争画を描く。1916年、戦争画展を開催。1915年から1916年、自著「非政治家の政治的絵本」を発刊。終戦後、講演や著作に励み、各種表彰を励行。


カテゴリー:作家
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アンデパンダン展とは?【 美術用語 】

1884年の春、スーラ、シニャックルドン、ギヨーマンなどを含むフランスの反アカデミズムの画家やサロン落選画家たちが独立芸術家集団を組織、同年夏に改組し独立芸術家協会(Societes des Artistes Independants)を結成し、年末に第1回展を開催。その目的は、所定の会費を払えば誰でも出品できる鑑査機構なしの展覧会を組織することにあった。アンリ・ルソー、ゴッホロートレック、セザンヌマティス等もしばしば出品するなど、印象派より若い世代の画家の多くがこの展覧会と関連し、20世紀の初めまで重要な美術動向の舞台となった。我が国においても、第2次大戦前に童心芸術社と二科展主催のものがあったが、1946年に日本美術会が設立され、民主的立場に立った日本アンデパンダン展を開催。これとは別に1949年、読売新聞社主催で同名の展覧会が開始され、しばらくは並例して進んだが読売アンデパンダンと改め、63年ダダ化が進むなかで中止に至る。

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