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ふれーぐる マティルデ・フレーグル
1909年から1916年、ウィーン工芸美術学校で、アドルフ・ベ一ム、ヨーゼフ・ホフマン、アントン・R.・フォン・ケンナー、オスカー・シュトゥルナートらに師事。1916年から1931年、ウィーン工房のメンバー。1931年から1935年、独立してアトリエを持つ。様々な学校で教鞭を執る。1915年、モード展、1920年、クンストシャウ、1922年、ドイツ工芸展、1925年、アール・デコ国際装飾・工芸美術展、1925年、ドイツ女性美術家展、1928年、近代の住宅展、1930年、工作同盟展、ウィーン女性芸術家展などに参加。オーストリア工作同盟及びウィーン女性美術家同盟会員。陶芸、木工、グラフィック・デザイン、ガラス装飾、服飾関係、壁紙、壁画などに携わる。
カテゴリー:作家
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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