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ふぉるすとなー レオポルト・フォルストナー
リンツ国立手工芸学校およびインスブルックのガラス絵画学校で勉強。1899年から1902年、ウィーン工芸美術学校でカール・カルガーおよびコロマン・モーザーに師事。1903年、ウィーン美術家展(ポスター、ステンドグラス、タペストリー)に参加。「ヴェル・サクルム」のための木版画を制作。1904年、ミュンヒェン美術アカデミーでルートヴィッヒ・ヘルテリッヒに師事。1908年、ウィーンの著名な建築家オットー・ヴァーグナー、エミール・ホッペ、オットー・シェーンタールの協力でウィーンモザイク工房を創設。1908年から1909年、工房設計図をクンストシャウに出品。1912年、コロマン・モーザーのデザインによるシュタインホーフ教会のためのステンドグラス、およびルドルフ・イェットマーのデザインによる祭壇モザイク画を制作。1909年から1911年、ストックレー邸の子供部屋のためにグスタフ・クリムトのデザインによる装飾モザイク画を制作。1911年、ハーゲンブント春季展に出品(自身のデザインによる中央墓地教会のステンドグラスとモザイク壁画)。1912年、自分のガラス窯を持つ。1913年、リンツのエーベルスベルク教会のアプシス(後陣)をデザイン。オーストリア美術家連盟に加入、オーストリア建築家教会の準会員になる。1914年、工芸美術学校の「工芸美術式典」参加試験に合格。ディアーナバート(保養所)の表玄関および玄関ホールのためのモザイク画を制作。1915年から1918年、民俗学博物館付の収集官として従軍。1919年、シュトッケラウに新工房、高級ガラス・モザイク・琺瑯工房および、高級ガラス工芸会社を創設、自身、ここで空洞ガラスを制作。1927年、ニーダーエースタライヒ州政府の工芸振興局の特別顧問になる。米国、キャリオコンのフランシスコ修道会教会の祭壇画(モザイクおよび琺瑯)を制作。1929年から1936年、ホラプルンのギムナージウムで自由画と工作を教える。
カテゴリー:作家
安田靫彦とは?【 作家名 】 1884年東京都に生まれる。江戸時代から続く料亭「百尺」の三代目安田松五郎の四男。本名新三郎。1898年(明治31年)に土佐派の伝統を継ぐ大和絵の小堀鞆音に師事する。同年第1回日本美術院展に出品、また同門の磯田長秋らと紫紅会を結成する。翌99年第7回日本絵画協進会に出品し、褒状2等を受賞、翌年の第8回展でも同賞を受ける。1900年、紫紅会を紅児会と改称、以後、同会を中心に研鑽をつむほか、師鞆音が主唱する歴史風俗画会に参加して故事と古美術研究を深め、日本美術院にも出品する。1907年、国画玉成会の創立に参加するほか、東京勧業博覧会と第1回文展に出品してそれぞれ受賞。画壇で認められるようになり、岡倉天心の知遇を得る。1913年(大正2)紅児会が解散し、天心が没したのちは、翌年の日本美術院再興に参画し同人となる。以後再興院展を主な活躍の場とした。1934年(昭和9)帝室技芸員、翌年帝国美術院会員、44年から51年まで東京芸術大学教授をつとめた。1948年には文化勲章を受賞した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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