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りひゃると はるふりんがー リヒャルト・ハルフリンガー
1892年から1894年、ウィーンでシュトラーロウに学ぶ。1894年から1899年、ミュンヒェン美術アカデミーでN.ギジス、C.V.マルに師事。1906年、ウィーン分離派のメンバー。1917年から1919年、 ウィーン分離派の会長。1917年より、ウィーン女子アカデミーの教授、ウィーン国立美術館、分離派ギャラリー、ウィーン市立美術館、ニーダーエスターライヒ州立美術館の各造形顧問。オーストリア領シュレジエン、ビーリッツ教会のステンドグラスの下絵制作。
カテゴリー:作家
タルとは?【 作家名 】 ネグリチュードの詩人としても知られた文人大統領サンゴールが打ち出した、新生セネガルの発足に際しての文化振興政策の思想は、アフリカの伝統的な精神をベースにして、西欧近代の物質文明を同化してゆこうというものであった。当時、パリから戻ったばかりのパパ・イブラ・タルは、サンゴールの理想の実現に向けて、ダカールの若い美術家たちを指導し、積極的に助言をあたえるなどした。やがて、これら一群の作家たちをエコール・ド・ダカールと呼び称するようになるのだが、彼らは仮面や神像などの伝統的なモチーフをキュビスムの手法を取り入れて、半抽象の様式で描くことに活路を見いだした。1966年、ダカールで開かれた第一回世界黒人芸術祭で、エコール・ド・ダカールは華々しく登場することになる。パパ・イブラ・タルも、この時にイバ・ンジャエによって企画された〈現代美術−傾向と対峙〉展に出品している。ここではエコール・ド・ダカールの第一世代の美術家たちがどのような顔ぶれであったのか、よく知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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