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かるう゛ぁっは ルドルフ・カルヴァッハ
ベルトルト・レフラー、カール・オットー・チェシュカ、アルフレッド・ロラーに師事。トリエステ港(彼の家族が在住していた)の木版画シリーズ。1903年、「ディ・フレッヒェ」の第一巻、1906年、ミートケ画廊の「ディー・ユンゲン(若手の作家たち)」展に参加。1908年から1910年、ウィーン工房のポストカード、絵草子。折りたたみ形式(レポレロ形式)の子どもの本の制作。1908年クンストシャウに参加、クンストシャウ向けポスターもデザイン、1909年、クンストシャウ参加の契約を更新。「地の霊」誌と「グラフィック美術」誌に作品を発表。1912年、アーデレ・フォン・シュタルクの琺瑯の専門クラスに通い、その作品は1913年、ミートケ画廊と工芸美術学校の展覧会で展示される。1910年、「ザ・シュテューディオ」誌に彼の作品に対する記事が記載される。ノイクンストグルッペ(新芸術集団)及びオーストリア工作同盟メンバー。1912年から1915年、シュタインホーフの精神病院に入院。彼の作品は、引き続きドレスデン、ライプツィッヒ、ミュンヒェン、ウィーンのコレクション展で展示される。1912年からは、精神分裂病の回復の見込みがなく、再び病院に戻る。
カテゴリー:作家
デ・スティルとは?【 美術用語 】 1917年、テオ・ファン・ドゥースブルフが、モンドリアンの協力を得て、レイデンで創刊し、1928年まで編集にあたったオランダの美術雑誌名。デ・スティルは「様式」の意味。最終号は1932年、ドゥースブルフ夫人が亡夫を記念して発行した「ドゥースブルフ追悼号」(通巻90号)。この雑誌は初めはモンドリアンの新造形主義の原理をもっぱら扱っていたが、ドゥースブルフが執筆陣にダダイストやクプカを迎え内容が包括的になったことからモンドリアンは寄稿をやめ、1926年以降は造形されたものの効果や具体性を重視するエレメンタリズムが中心となった。このような経緯があるにせよ、両大戦の間で最も大きな影響を与えた雑誌である。また、デ・スティルの名称は、この雑誌に関係した芸術家、建築家のグループをも指し、彼らが始めた建築様式上の運動にも用いる。それは、キュビスムの影響を受け直角と滑らかな平面の組合せよりなる抽象形態と、色彩は原色と白、黒、灰のみを使用した純粋な抽象的造形を意図したものであった。 |
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