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くりんく アントン・クリンク
1898から1903年、 ウィーン工芸美術学校でアルフレッド・ロラーとヨーゼフ・ホフマンに師事。1902年から1905年、 イラストレーターとして活躍、「ディ・フレッヒェ」第一巻の幾つかの作品を制作。風刺的な「ルシフェール」誌や、「地の霊」誌などの制作に従事。1903年から1905年、 家具のデザイン。1907年、 キャバレー・フレーダーマウスの装飾に従事。陶器デザインではベルトルト・レフラーとミヒャエル・ポヴォルニーも参加。1908年、クンストシャウ展の為の委員会及び彼自身が本装飾デザインした同展のカタログ制作の責任者になる。展覧会は、壁画、ポスター、本装飾関連。1908年から1923年、ハンブルグ工芸美術学校で教師を務める。この時期に多くの本挿絵制作。1909年、クンストシャウに参加する。1909年から1910年、オーストリア美術工芸展に、ベルトルト・レフラー、ミヒャエル・ポヴォルニー及びウィーン陶器製造所と共に参加。1923年から1927年、プフォルツハイム工芸美術学校の校長。1927年から1963年、陶器、油彩、水彩制作のフリーの芸術家としてカールスルーエに滞在。1931年、バーデンの芸術家協会にて個展。
カテゴリー:作家
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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