![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
くりんがー ユリウス・クリンガー
ウィーン技術産業博物館で学ぶ。1895年、デッサンアトリエ、‘ヴィーナー・モーデ’に入る。ここでコロマン・モーザーと知り合い、彼の推薦で「メゲンドルファー・ブレッター」誌に参加。1896年、ミュンヒェンに移住、1年後ベルリンに転居。同地で出版人のドクター・アイスラーに協力。かたわら、滑稽本「ディ・ルスティゲン・ブレッター」、風刺雑誌「ダス・クライネ・ヴィッツブラット」の挿絵、ポスターを制作、また、レタリングデザインを始める(1897年「ボールド体」発表、1912年から13年、H.ベルトホルト書店(ベルリン)が第202号で「クリンガー字体」特集)。1908年から1909年、ウィーン・クンストシャウに参加。1911年、ダルムシュタットの芸術家村の招きを断わる。1912年、ベルリンのJ.シュミット・ガラス絵工房のためにガラス窓デザインを制作。ウィーン分離派のポスター展に出品。欧州旅行。1915年、ウィーンに戻る。1918年まで兵役。ポスター制作アトリエを開く。1926年、「現在作家国際レタリング展」にオリジナルのレタリングパラフレーズを出品。施盤を使ってファンタジック図形「ベターウェイ・グロテスク」を開発、宣伝広告用に多用、今日、世界中に広まる。R.ベルナウアーとマインハルトのパロディ「悪党の歌」の挿絵を描く。
カテゴリー:作家
廣島晃甫とは?【 作家名 】 1889年徳島県徳島市に生まれる。1951年没する。本名は新太郎。香川県立工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を卒業。1916年、長谷川潔、永瀬義郎と日本版画倶楽部を結成。1919年の第1回帝展(帝国美術院展)と翌年の第2回帝展では日本画が連続して特選を受賞し、一躍画壇の注目を集める。その後も、帝展、新文展(文部省美術展)、戦後の日展(日本美術展)に出品し活躍。日独美術展覧会委員、帝展や新文展の審査員なども歴任した。大正期は浪漫的香りある人物表現を行うが、次第に花鳥画に重点を移していった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||