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けーにっひ フリードリッヒ・ケーニッヒ
ウィーン工芸美術学校で学ぶ。1878年から1983年、ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事、さらに、ミュンヒェン美術アカデミーで学ぶ。再びウィーンに戻り、木版画家として働く。この間の代表作が「オーストリア・ハンガリー君主国=その言葉と絵の世界」。ハーゲンブントのメンバーになる。1897年、ウィーン分離派の創設に参加、そこで、ヨーゼフ・エンゲルハルト、ルドルフ・バッヒャー、マキシミリアン・レンツのサークルに入る。第1回分離派展の室内装飾をデザイン。1898年から1904年、「ヴェル・サクルム」に定期的に寄稿。多数の展覧会に出品。1899年、ウィーン分離派の幹事メンバー、「ヴェル・サクルム」の編集メンバーになる。1898年から1899年、ヒンターブリュールにあるヨーゼフ・マリア・オルブリッヒの建てた家の子供部屋の壁画をデザイン。1902年、切手に似たカリカチュアを分離派展に出品。1903年、木版画8点の連作「ウィーンの菓子市場」を制作。1904年、第21回分離派展のポスターを制作。1905年、第22回展の会場作りに参加。
カテゴリー:作家
デュシャンとは?【 作家名 】 1887年フランスに生まれる。1968年没する。ジャック・ヴィヨンとレイモンド・デュシャン・ヴィヨンは兄にあたる。1904年から5年にかけてパリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。兵役を径て1906年パリへ戻る。フォーヴィスムや未来派、キュビスムなどの新しい潮流に触れる。1913年ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」に〈階段を降りる裸婦〉を出品する。キュビスムと未来派を結合したようなこの作品は話題を呼ぶ。第1次世界大戦を機に1914年ニューヨークに渡り、ピカビア、マン・レイらと共にニューヨーク・ダダの中心として活動する。レディ・メイドを始め、1917年には既製の便器にR・MUTTとサインしただけの〈泉〉を発表した。1915年から23年にかけては大きなガラス板に鉛の糸と油彩で描いた〈独身者によって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)〉を製作した。芸術という制度を強烈に拒否した彼は、今世紀の最も影響力を持つ芸術家の1人として認められている。 |
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