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れふらー ハインリッヒ・レフラー
ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事、ミュンヒェン美術アカデミーでN.ギジスおよびW.ディーツに師事。1882年、「寓意と象徴」(M.ゲルラッハ刊)のためのデザイン。1895年から1907年、多数の本挿絵を描く。一部、義理の兄弟であるヨーゼフ・ウルバンと共作。1900年、ウルバンと二人でハーゲンブントを創設。グラーフェン・エステルナツィの城のために制作した壁画を第14回キュンストラーハウス展に出品。グスタフ・マーラーのもとでウィーン宮廷オペラ劇場の装置監督を務める。1908年、フランツ・ヨーゼフ1世の即位60周年記念式典のデザイン制作。ウルバンの協力者として、特に応用美術を担当。ウィーン美術アカデミーの教授に就任。
カテゴリー:作家
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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