![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
おるりく エミール・オルリク
1889年から1891年、ハインリッヒ・クニールの私立絵画学校で学び、1891年から1893年、ミュンヒェン美術アカデミーにてヴィルヘルム・フォン・リンデンシュミットとヨハン・レオンハルト・ラーブに師事。1898年、英国旅行で木版画家ウィルアム・ニコルソンと連絡を取る。同様に、仏旅行でフェリックス・ヴァラトンと知合う。1898年から1907年、色木版画に従事。1899年、ウィーン分離派のメンバーとなり、1905年、クリムト・グループと共に脱退。分離派の展覧会に参加。1899年から1900年及び1902年から1903年、「ヴェル・サクルム」にカレンダー、リトグラフ、素描を提供、ライナー・マリア・リルケも寄稿している。本の装飾や、蔵書票の制作に従事。「ユーゲント」の協力者。1900年から1901年、アジア旅行へ、この旅行で日本の木版画芸術を学ぶ。1903年から1904年、ウィーンではクリムト・グループと親しくしていた。1904年、オットー・エックマンの後任として、ベルリン工芸美術館の附属学校に就任、1932年からはこの学校の教授となる。1912年、二度目の東アジア旅行。1918年、ブレスト・リトヴスクの和平交渉の際に画家を務める。1924年、米国へ旅行。1920年と1926年、パウル・カッシラー出版からベルリンの著名人の肖像画を纏めた書籍二冊を出版。
カテゴリー:作家
小林清親とは?【 作家名 】 江戸に生まれる。父は、幕府の本所蔵屋敷総頭取。父の没後、幕府の勘定下役として京都、大阪に滞在し、鳥羽伏見の戦にも参加。維新後は、明治7年(1874)、静岡から上京して画業に専念。ワーグマンにも学んだといわれる。明治9年(1876)、水彩画の学習によって得た遠近法や陰影法を用いて、東京の新名所を木版画で表し、次々と発表。光と陰の表現から、「光線画」として人気を集めた。明治14年(1881)頃から、光線画の制作をやめ、「団団珍聞」に風刺画を描き、また、「東京日日新聞」「報知新聞」などに挿絵を描いた。日清戦争時には錦絵で戦争画を制作。その後、錦絵の衰退に伴い、肉筆画を描くことが増えていった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||