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しもむら りょうのすけ 下村良之介
1923年大阪府に生まれる。1998年没する。1943年京都市立絵画専門学校を卒業、学徒動員で入営。1946年復員。1948年山崎隆、三上誠らと、パンリアル美術協会を結成、翌年第1回展を開催。1956年第7回朝日秀作美術展(62年第13回展も)、60年「日本画の新世代」展(東京国立近代美術館)に出品。1960年第2回みずゑ賞選抜作家展で準賞を受賞。1961年第6回日本国際美術展(63年第7回展も)、62年第5回現代日本美術展(64年第6回展、68年第8回展も)に出品。1962年丸善石油芸術奨励賞展大賞を受賞。同年「現代絵画の展望」展(東京国立近代美術館)、1963年「現代絵画の動向」展(国立近代美術館京都分館)、64年「現代美術の動向」展(国立近代美術館京都分館)、現代日本絵画展(ワシントンなどを巡回)、65年第8回サンパウロ・ビエンナーレなどに出品。1982年美術文化振興協会賞を受賞。1971年から大谷大学教授。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
オットー・ヴァーグナーとは?【 作家名 】 1857年から1860年、ウィーン工科大学に学び、1860年、王立のベルリン建築大学でカール・フェルディナント・ブッセに師事。1861年から1963年、ウィーン美術アカデミーで、アウグスト・ジカルド・フォン・ジカルズブルグとエドゥアルド・ファン・デア・ニュルに師事。1894年、キュンストラーハウスのインターナショナル展覧会での建築プロジェクト展。1895年から1913年、ウィーン美術アカデミー教授。1896年、著書「近代建築(シュロル社、ウィーン刊)」が出版される。1895年から1902年、市民鉄道の駅舎、及びドナウ運河の航路の建設を指揮した。1898年から1900年、ウィーンの家並みに沿う家々の建築。ウィーン分離派に加盟したばかリではあったが、1898年には第2回分離派展の装飾を行っている。彼は、様々な展覧会に出品したが、とりわけフランツ・ヨゼフ・クァイのためのデザインや家具、1905年のシュタインホフ教会の為のデザインなどを、展覧会に出品した。1898年から1900年、「ヴェル・サクルム」への絵画作品の提供。彼自身が表紙カバーをデザインした第2年次の第8号は、特別号として彼に献呈されている。1900年、「職業の中の芸術」に寄稿。1904年から1906年、ウィーン郵便貯金局の建築、1905年から1907年、シュタインホフの教会の建築。1905年、クリムト・グループと共にウィーン分離派を脱退。1908年から1909年、クンストシャウに参加。1909年、「大都市」を出版。1912年、デューラーガッセの賃貸住宅の建築、ここにはヨーゼフ・ホフマンの工房も入居した。友人グスタフ・クリムトと共に、新しく設立されたオーストリア芸術家同盟の副会長となる。1914年、「近代建築」の四度目の改訂版である、「同世代の建築芸術」を出版。 |
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