ウィーン美術
アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事。1897年、ウィーン
分離派の創設に参加。「ヴェル・サクルム」第7号から編集に参加。第1〜7号の扉絵のほか、多数の挿絵を描く。また、シュレフォークト展のポスターおよび雪山登山鉄道のポスターの文字は、モダンなレタリングの出発点となる。1899年、ウィーン工芸美術学校教授。1899年から1903年、ウィーン
分離派展の一連のポスターを制作。第14回展「
クリンガー/ベートーベン特別展」には、カタログデザインのほか、「歌う夜」も出品。1905年、
クリムト・グループと共にウィーン
分離派を脱退。1897年から1907年、ウィーン宮廷オペラ劇場でグスタフ・マーラーの指導の間、舞台監督を務める。舞台作りに斬新なアイデアを駆使、特にリヒャルト・シュトラウス作のオペラの初演には型破りの舞台を作る。また、マックス・ラインハルトのためにも働く。クンストシャウには舞台設計(特にフーゴー・フォン・
ホフマンシュタールの「オディプスとスフィンクス」等)で参加。1909年、ウィーン工芸美術学校校長。
ウィーン工房では
ヨーゼフ・ホフマンに協力。1918年、ウィーン宮廷オペラ劇場の舞台監督。