![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ろらー アルフレート・ロラー
ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事。1897年、ウィーン分離派の創設に参加。「ヴェル・サクルム」第7号から編集に参加。第1〜7号の扉絵のほか、多数の挿絵を描く。また、シュレフォークト展のポスターおよび雪山登山鉄道のポスターの文字は、モダンなレタリングの出発点となる。1899年、ウィーン工芸美術学校教授。1899年から1903年、ウィーン分離派展の一連のポスターを制作。第14回展「クリンガー/ベートーベン特別展」には、カタログデザインのほか、「歌う夜」も出品。1905年、クリムト・グループと共にウィーン分離派を脱退。1897年から1907年、ウィーン宮廷オペラ劇場でグスタフ・マーラーの指導の間、舞台監督を務める。舞台作りに斬新なアイデアを駆使、特にリヒャルト・シュトラウス作のオペラの初演には型破りの舞台を作る。また、マックス・ラインハルトのためにも働く。クンストシャウには舞台設計(特にフーゴー・フォン・ホフマンシュタールの「オディプスとスフィンクス」等)で参加。1909年、ウィーン工芸美術学校校長。ウィーン工房ではヨーゼフ・ホフマンに協力。1918年、ウィーン宮廷オペラ劇場の舞台監督。
カテゴリー:作家
池田蕉園とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。旧姓榊原、名は由理、通称百合子。父は泉州岸和田藩士、母は国沢新九郎、本多錦吉郎に油彩画を学んだと言う。麹町女子学院卒業後すぐ、16歳で水野年方に入門。1907年(明治40)東京府勧業博覧会で2等賞を受賞。同年の第1回文展で3等賞を受賞したのを最初に、第2回展、第3回展、第4回展と連続4回3等賞を受賞した。その後も第5回展、第6回展、第8回展で褒状を、第9回展で3等賞、第10回展で特選を受賞した。彼女のこうした活躍は上村松園と比され、西の松園、東の蕉園と並び称された。1911年には、婚約以来8年もの紆余曲折をへて同門の池田輝方と結婚、16年(大正5)第10回文展では夫婦そろって特選をとるなど、おしどり作家といわれた。結婚後の蕉園は、夫輝方をもりたてるために第一線から身をひくようなところがあり、そのために夢を追うような初々しさのただよう美人画から次第に作風が変化、江戸っ子の典型のような輪郭のはっきりした女性像になっていく。1917年肋膜炎のため31歳の若さで没する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||