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すてら エドアルド・ステラ
1900年から1905年、ウィーン工芸美術学校でヴィリバルト・シュールマイスター、アンドレアス・グロル、カール・オットー・チェシュカ、フランツ・メッツナーに師事。1905年から1909年、ウィーン美術アカデミーで、ハインリッヒ・レフラーに師事。1910年、ウィーンのヨーゼフ市立劇場でゲーテの「ファウスト」を演出(スケッチを1932年にケルン劇場楽団が取得)、1912年には自由人民劇場でストリンドベリの「クリスティーネ女王」、シェークスピアの「ハムレット」、1920年にはウィーン市立劇場で「ウィンザーの陽気な女房たち」、1927年にはドナウ川沿いの町シュピッツで野外フェスティバル、1928年にはウィーン人民劇場でシューベルトフェスティバルを演出した。挿絵類は、C.M.ヴィーラントの「ハインリヒ・バーベンベルク公」および「フリードリヒ好戦公」、「ネアンギールとその兄弟」、S・イェリネーク教授の「電気防護ハンドブック」、「テオドール・シュトルム」。その他、ウィーン分離派の1919年団体展、1922年秋季展に出品している。
カテゴリー:作家
ドラートルとは?【 作家名 】 版画家で出版業者の父、オーギュスト・ドラートルの息子として生まれた彼は、当時の最も優れたグラフィック・アーティストたちの仕事ぶりを見ながら、家業をおぼえていった。彼は自分が住み、仕事をしていたモンマルトルという場所の土地柄と活気を好み、版画の制作に活かしている。1890年頃、日本の多色刷版画に刺激されて、多色刷エッチングを試みはじめた。ドラートルはとりわけマクシム・モーフラやリヒャルト・ランフト、スタンランらにエッチングを教え、19世紀末に数多くのオリジナル版画を印刷した。1896年、S・ビングのギャラリー「アール・ヌーヴォー」に13点の版画を出品したが、おそらく彼の日本美術コレクションはビングを通じて作り上げられたものと思われる。1899年、多色刷版画協会の一員となり、その年次展に出品された版画の多くを印刷した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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