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つぁっしぇ テオドール(テオ)・ツァッシェ
父ヨーゼフに学んだ後、ウィーン工芸美術学校でフェルディナント・ユリウス・ラウフベルガーとユリウス・ヴィクトール・ベルガーに教わる。父の死後、残された磁器絵付け工房を経営し特にファヤンス焼と七宝焼の細密な絵付け仕事に専念した。また、パステル画も試みたほか、「フロー(ほがらか)」、ユーモア風刺雑誌「ウィーナー・ヴィッツブラット」、ベルリンの娯楽誌「ルスティゲ・ブレッター」、ミュンヒェンの風刺雑誌「フリーゲンデ・ブレッター」に挿画を描いた。1910年以降、彼は「フォルクスツァイトゥンク(国民新聞)」のために仕事し、そこに政治風刺画を描いた。シュリースマンの死(1920年)以降、「ウィーナー・ルフト(ウィーンの空気)」の定期寄稿者となった。ウィーンの生活と社会によく通じていた彼は、ウィーンの人物像を的確なタッチでペン画や墨画にみごとに仕上げ、彼独特の愛すべきユーモアでウィーン子をニヤリとさせた。1892年3月24日、ウィーン・キュンストラーハウス(ウィーン芸術家協会)の会員となる。1923年7月、同会はツァッシェのために特別回顧展を開いた(図版・写真入りカタログ)。
カテゴリー:作家
脂派とは?【 美術用語 】 一般に明治美術会系の画家の画面が脂っぽい印象を与えることから、世間がこの系統の作家と作品を揶揄して用いた名称。紫派と呼ばれる黒田清輝を中心として形成された外光派との対比で用いられた。ほかに旧派、北派、変則派とも呼ぶ。1893年ラファエル・コランにサロン風の外光描写を学んだ黒田が帰国するまで、日本の画家は外光描写を知らず褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色あるいは黒で表現したため、画面は暗く脂っぽいものとならざるを得なかった。それに対して明るく感覚的な黒田の外光表現は清新な感動をもって若い画家に迎えられ、やがて当時唯一の官展であった文部省美術展(文展)の画風を支配していった。ジャーナリズムは両者の対立を脂派と紫派の抗争とあおったが脂派は画壇の片隅に追いやられていった。 |
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