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まった マッタ
1911年チリに生まれる。2002年没する。サンチャゴのカトリック大学で建築を学ぶ。1933年にパリに渡り、34年から35年まで建築家ル・コルビジェのもとで助手として働く。1935年に、絵に身を捧げる決意をする。この頃、シュールレアリスト達と親交を持つ。第2次世界大戦中の1939年ニューヨークに亡命する。マッタに続いてエルンスト、マッソン、ダリ、ブルトン、デュシャンらもアメリカに渡る。キャンバスに液を塗りひろげ、茫洋とした中から、オートマティスムの手法を用いてしだいに形が生み出されていく彼の作品は、彼の科学観の反映でもある。商業的にも成功したダリとはまた違った意味で、シュールレアリスムの存続を担う作家であるといえよう。1954年にはパリに戻り、56年にはパリのユネスコビルの壁画制作を依頼される。この頃から彫刻にも手を染める。1957年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれた。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年)
カテゴリー:作家
池田蕉園とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。旧姓榊原、名は由理、通称百合子。父は泉州岸和田藩士、母は国沢新九郎、本多錦吉郎に油彩画を学んだと言う。麹町女子学院卒業後すぐ、16歳で水野年方に入門。1907年(明治40)東京府勧業博覧会で2等賞を受賞。同年の第1回文展で3等賞を受賞したのを最初に、第2回展、第3回展、第4回展と連続4回3等賞を受賞した。その後も第5回展、第6回展、第8回展で褒状を、第9回展で3等賞、第10回展で特選を受賞した。彼女のこうした活躍は上村松園と比され、西の松園、東の蕉園と並び称された。1911年には、婚約以来8年もの紆余曲折をへて同門の池田輝方と結婚、16年(大正5)第10回文展では夫婦そろって特選をとるなど、おしどり作家といわれた。結婚後の蕉園は、夫輝方をもりたてるために第一線から身をひくようなところがあり、そのために夢を追うような初々しさのただよう美人画から次第に作風が変化、江戸っ子の典型のような輪郭のはっきりした女性像になっていく。1917年肋膜炎のため31歳の若さで没する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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