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ほせ くれめんて おろすこ ホセ・クレメンテ・オロスコ
1883年、メキシコ、サポトランに生まれる。幼い頃からサン・カルロス美術学校の夜間部に通う。1897年から1904年までサン・ハシント国立農業学校、国立予科高等学校に学び、農業技師の資格を取るが、04年に再び、サン・カルロス美術学校に入る。そこで、師ドクトール・アトルの、メキシコ民族主義に立った反アカデミズムの姿勢に影響を受ける。また、風刺画も描き始める。1910年のメキシコ革命以後も風刺画を中心に活動し、特に「前衛」誌には〈革命のメキシコ〉と題した連作スケッチを掲載する。1911年の国立美術学校のストライキに参加誌、また、22年の技能労働者・画家・彫刻家連合にも参加する。壁画運動にも加わり、国立予科高等学校やオリサバエ工業学校などに壁画を描く。1927年から34年にかけてアメリカに滞在する。壁画制作と同時に、都市の機械文明への風刺を込めたタブロー画も手がけ、風刺画家から脱皮する。1934年、メキシコに帰国後も、国立芸術宮殿の壁画〈浄化(カタルシス)〉や国立師範学校野外劇場の壁画〈国民的寓意〉等、数々の壁画を制作する。メキシコの民族主義に立脚した厳格で象徴主義的な作風が特徴。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)
カテゴリー:作家
川上冬崖とは?【 作家名 】 1827年長野県に生まれる。江戸に出て大西椿年に学び岸太郎と称する。蕃書調書に入り、絵画取調出役、画学出役となって洋画法を研究し、後進を指導。明治維新後、大学南校(東京大学の前進)、文部省、陸軍兵学寮、陸軍参謀局に勤める。第1回、第2回内国勧業博覧会美術部の審査主任。1870年下谷に私塾聴香読画館を設けて青年たちに西洋画法を教える。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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