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ざつきん オシップ・ザツキン
1890年ロシア、スモンレスクに生まれる。1967年没する。1907年からロンドンの工芸美術学校、09年からはパリのエコール・デ・ボザールで学ぶ。アポリネール、マックス・ジャコブ、ブランクーシ、アーチペンコ、リプシッツ、ピカソらと交友する一方、アンデパンダン展やサロン・ドトンヌに出品する。また、1914年にはベルリンの新分離派にも参加する。1919年、ブリュッセルでの初個展以降、東京も含む世界各地で個展を開く。1939年、ニューヨーク万博のフランス館でも作品が展示される。1940年に、ナチの手を逃れてニューヨークに渡る。1945年パリに戻り、グラン・ショーミエールで教鞭を執る。1949年にはパリの国立近代美術館で大回顧展、翌50年にはヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受ける。また、日本の二科会のメンバーに、名前を連ねたこともある。黒人彫刻の影響を受けながら、独自のスタイルを築き上げ、キュビスムの代表的な彫刻家の一人といわれる。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年)
カテゴリー:作家
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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