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いおき ぶんさい 五百城文哉
1863年茨城県に生まれる。1878年から翌年まで母校上市小学校の教壇に立つ。1884年農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。1887年東京府工芸品共進会に出品。1890年第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける。農商務省を依願退職。1892年本名を熊吉から文哉に改める。1893年シカゴ万博に出品。この制作を機に日光に住いを移す。1901年日光を訪れた牧野富太郎と植物採集をする。東京山草会の結成に参加。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年)
カテゴリー:作家
荻原守衛とは?【 作家名 】 1879年長野県穂高町に生まれる。1910年没する。1899年画家を志し上京、小山正太郎の不同舎で学ぶ。1904年渡欧中にロダンの「考える人」に感動し、彫刻家を志す。1908年第2回文展で「文覚」が三等賞を受賞。1909年第3回文展で「北条虎吉氏肖像」が三等賞を受賞する。第4回文展で絶作「女」が三等賞受賞。守衛はロダンから、彫刻を量塊としてとらえ、その中に有機的な躍動感を盛り込むことで、彫刻が空間の中で息づくのだということを学んだ。そして守衛の存在はまた、日本近代彫刻の礎となっている。彼の作品に込められた内的な生命感は、彫刻の自立を促すものであり、「坑夫」「デスペア」などはいずれも、日本近代彫刻史を語るに不可欠な作品で、若くして去った守衛の代表作といえる。碌山と号す。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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