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んげっさん クラ・ンゲッサン
1954年、ダウクロに生まれる。1972年から77年にかけてアビジャンの国立美術学校(INA)に学ぶ。すでにこの時期INAでは、1970年代の初めに、美術学校の絵画教室から生まれたヴォウヴォウの名の下に、若い学生たちが熱気を帯びた芸術運動を展開していた。その中心にいたのが、クラ・ンゲッサンである。彼の青春は、文字どおりヴォウヴォウとともにあったといっても過言ではない。〈ヴォウヴォウ〉というのはコートジヴォワールの中西部で用いられているガグゥ語、もしくはグロ語で、木の葉のざわめきだとかそこらじゅうに置かれたガラクタなどを意味する意味した。新しい表現を模索していた若い美術家たちにとっては、身辺のガラクタともいえるものたちを実際に制作の素材とすることで、自分たちの言葉を手に入れたようにも感じられたに違いない。INAを卒業したンゲッサンは、1977年から80年にかけてパリに出て、ボザールなどで学んだ。当時のイヴォワリアンの留学生の例に違わず、彼もまたボザールではジャック・ヤンケルのアトリエに出入りした。ユスフ・バトゥやクドゥニョンら、ヴォウヴォウ派の隊列を担う同年代の俊英たちが、ここでは互いに琢磨しあっていた。少し遅れて80年代に入ると、やや異色の経歴をもつあのバカリ・ワタラもこのアトリエに顔を出すようになる。帰国後、リセの教師を経て、1987年アビジャンのINAの教授に就任、一貫して制作に携わると同時に、後進の育成にあたってきた。1991年から数年の予定で再びパリにおり、(1995年)現在ソルボンヌの博士課程に在籍している。砂や土、羽根、皮革、樹皮など身辺のありふれた素材を取り込んで、アフリカの精神的伝統を地声で表現しようとしたヴォウヴォウの作家たちの中にあって、ンゲッサンの特質は、明快な色彩のコントラストと洗練された透明感にあった。マルチニク出身の画家で、アビジャンINAで若い学生たちを大いに鼓舞したセルジュ・エレノンの影響は、このンゲッサンに最も直接的に現れていたのかもしれない。クラ・ンゲッサンは今日もなおトゥーレ・ヤクバ、タムシール・ディア、ユスフ・バトゥらとともに、グループ・ヴォウヴォウを自ら宣揚している。ンゲッサンは今も、ヴォウヴォウの精神を生きているのである。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年)
カテゴリー:作家
未来派とは?【 美術用語 】 20世紀初頭、イタリアを中心に興った芸術運動。1909年2月20日、詩人マリネッティがパリの日刊紙『フィガロ』紙上に最初の「未来派宣言」を発表し、10年3月8日ボッチョーニ、カルラ、ルッソロ、バルラ、セヴェリーニがトリノの劇場で観衆を前にイタリアで最初の未来派運動宣言を行なった。新時代はそれにふさわしい生活様式と表現を必要とするとし、いっさいの過去を精算して速度とダイナミックな力の渦巻く機械文明の感覚を力強く表現することを主張した。造型の観点からは、対象の物質性を破壊してキュビズムから得た同時代性の思想を画面に定着し、運動の表現に新たな道を開いた点が注目される。運動としては1915年頃までで終ったが、ダダをはじめ20世紀芸術の諸運動に与えた影響は少なくない。印刷物を通じた幅広い広報活動をおこない、大正10年代の日本の美術・文学にも多くの影響を与えた。 |
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