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かまら フォデ・カマラ
ダカールに生まれる。同地の国立美術学校で絵を学ぶ。1981年に卒業後、とばらくはセネガルに留まって制作を続けていたが、87年フランスに渡り、パリ国立高等装飾芸術学校に入学。1989年に同校を卒えた後、現在に至るまで、パリとダカールを往復しながら活発な創作活動を続けている。「アフリカのためのアート」展(パリ,1988)や「熱帯地方のフランス革命」展(パリ,1989)をはじめ、多くの展覧会に参加している。年齢的にも、またサンゴールが退陣した直後の1981年に作家として出発したという点でも、カマラはエコール・ド・ダカールの第二、そして第三世代を担う画家だといえる。画風はエコール・ド・ダカール仕込みの半袖象から純粋印象までと幅広い。ガラス絵などセネガルの伝統工芸の技法に興味を示す一方、近年はコラージュを多用したり、時にはカンヴァス自体に様々な手を加えたりもする。カマラの基本的関心は、おそらくアフリカの同時代性をいかに描くかということにある。そして彼にとって、アフリカの同時代性を典型的に集約するのが、ダカールという都市に生き、そこで近代的な教育も受けた自己なのである。たとえば1992年の作品〈トーテム・〉には画面の中央にビニール・サンダルの片足が貼りつけられる。いうまでもなくサンダルはアフリカの、特に都市の下町では最もポピュラーな履き物で。サンダルは、伝統も近代も、夢も現実も丸ごとを抱えながら、それでも一日一日を地道に生きていく貧しいアフリカの市井の人のつまりカラマ自身の、存在と痕跡を鮮やかに表現しているのである。1965年生まれのファトゥ・ナムなど、彼よりさらに若い世代の作家たちにも少なからぬ影響を与えており、この面でも、「エコール・ド・ダカール」の第一世代のあとにあって、カマラが果たしている役割の大きさを窺い知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年)
カテゴリー:作家
アドルフ・ロースとは?【 作家名 】 12歳のとき、難聴になる。ライヒェンベルクの国立工芸学校の建築技術科、1890年から1893年、ドレスデンの工科大学で学ぶ。1893年から1896年、米国に滞在、1893年にはシカゴ万国博覧会を訪れる。H.サリヴァンと知り合う。1896年以降、ウィーンで建築家として働く。1897年以降多くの新聞雑誌の記事に、製品デザインと建築における、即物的な造形の基本理念を述べている。1898年、「ヴェル・サクルム」に、「ポチョムキン的な街」を発表する。1899年、質素で最新、機能的なデザインの最も初期の一例である、カフェ・ミュージアムの室内インテリアに携わる。同様に、彼が内装設計した「ケルントナー・バー」は、俗に「ロースバー」と呼ばれ、今日に至るまで大々的には変わることなく維持されている。彼の著述においては、装飾への彼自身の考え方に対しても、仲間たちに対してや名前の表記の仕方(彼は氏名を全て小文字で現す)に関しても、妥協を許されていない。1908年、講演「装飾と罪悪」では、彼の願望の一部分を現している。すなわち、合理化と余剰なもの−とりわけ装飾における−の放棄による、労働時間の短縮と、それによって得た自由な時間のことである。彼は幾何学的な装飾を、装飾の悪習と呼んでいる。1910年から1911年、ミヒャエーラープラッツにある邸宅の建築。これについては多く議論され、激しく拒絶されることになる。1912年から1914年、アドルフ・ロース建築学校が設立される。1921年、五十歳を祝して、仏で彼の著作物が蒐集された後、出版される。晩年、完全に耳が聞こえなくなり、1931年、重い神経症にかかる。自分の墓石の碑文には、「人類を無駄な労力から解放する・・・アドルフ・ロース」と刻むよう望んでいた。 |
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