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ぐろーう゛ぁー

アブラド・グローヴァー

アクラに生まれる。ガーナの至峰クマシ工科大学で美術を学んだあと、60年代から70年代にかけてイギリスおよびアメリカに留学、帰国後は母校で教壇に立つ。一時期は同大学の芸術学部長も務めた。今日のガーナ美術界を代表する画家である。人物群像を描いた作品もあるが、グローヴァーを有名にしたのは、何といってもアシャンティ族の古都クマシの象徴である市場の賑わいを俯瞰した大画面の作品であろう。その描き方は、極めて個性的だ。市場の一部を切り取って、それをそのまま画面全体に拡げ、油絵具をチューブから直接ナイフで掬いとっては画面に刻みこんでゆく。無数のトタン板の屋根とその周りに蠢くこまれた無数の人々が織りなすざわめきは、この時丸ごと画面に封じこめられる。自らの存在の拠りどころとしての市場が、グローヴァー自身の原語で明確に語られてゆく瞬間だ。技法としては、グローヴァーのそれは基本的にはフォーヴィスといってよい。しかしながら、ひたすら西洋美術の技法のを修得することに汲々としてきたサカ・アクエら、先行かる第一世代の作家たちと比べる時、グローヴァーは独自の内容を表出することにみごとに成功している。1990年にはニューヨーク、ハーレム・スタジオ美術館で開催された「現代アフリカの美術作家・変猊する伝統」展に出品、また95年秋にはロンドンのオクトーバー・ギャラリーで個展を開くなど、海外での発表も多い。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年)


カテゴリー:作家
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ホフマンとは?【 作家名 】

1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。

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