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あくぱん サンディ=ジャック・アクパン
ナイジュリア南東部イボン州、アクワの生まれで、イビビオ族の出。土地の小学校しか出ていないのだか、その頃、村や町でよく見かけた陶やセメントの墓標装飾に心惹かれたのだという。小学校を出たあと石工になった彼はある日「自分の中のアーティスト」に目覚め、セメントを用いて、実際にいる様々な人物の像を造り始めたらしい。「サン・ジャーンズ自然彫刻家会社、取締役社長、よろず装飾承ります」と彼の名刺にあるが、何を造るかは注文次第、また時にはその折々の気分次第であるようだ。モデルはスーツ姿のサラリーマンから制服を着た警察官、はては部族の長老までと幅広い。本人の気持ちは別々として、職人といった方が、より雰囲気を伝えているのだろう。像の造り方は、直径1センチほどの鉄筋を骨にして形を作り、その周囲をセメントで肉付けして固め、最後にアクリルを使って何種類もの色を塗り分けて出来上がる。全体に動きが乏しいのは、素材の制約上やむを得ないところである。1989年、「マジシャン・ド・ラ・テール」展(パリ、ポンピドゥセンター)に、これも高級車ベンツや動物を象った棺桶彫刻で知られるガーナのカネ・クウェイらとともに招かれ、一躍世界的に知られるようになった。1994年には、東京・立川での野外彫刻プロジェクトのために来日もしている。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年)
カテゴリー:作家
ゲラールとは?【 作家名 】 画家、版画家、挿絵画家、装飾デザイナーとして活躍したゲラールは、1860年代、マネやフェリックス・ビュオ、フィリップス・ビュルティらの親しい友人であった。初期にはエッチングによる複製版画で生計を立て、装飾デザイナー、あるいは扇製作者としても働いた。1883年には、ルイ・ゴンスに協力して、『日本美術』に日本の美術品を描いた200点余りものエッチングの挿絵を入れている。オーギュスト・ルペールと付き合うようになり、おそらくエミール・ベルナールにも刺激されたのであろう。1880年には木版画を手がけ、1880年代後半、多色刷エッチングの技法の発展に尽力した。フィリップ・ビュルティとフェリックス・ブラックモンと共にデュラン=リュエル画廊で画家=版画家年次展覧会を設立し、1890年、フランス画家=版画協会をフェリックス・ブラックモンと共に創設した。1897年、ロジェ・マルクスはゲラールのことを「パリの日本人」と評している。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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