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たいむとぅふらい Time to Fly
靉嘔の本名は、飯島孝雄。母音(アイウエオ)の中からアイオを選び、ペンネームとしたという。池田満寿夫らとグループを結成、前衛作家として注目を集めていたが、27歳の若さで渡米する。以後、ニューヨークを拠点にポップアートの作家として活躍する。虹(にじ)色の作品でよく知られるようになり、今日「虹色の作家」として、世界的に有名である。可視光線を分解したスペクトルを物体に投射すると、虹色のストライプが出来、物体の固有色が無くなる。それはエックス線を投射して物体の本質を探る様であり、靉嘔にとって虹色は、物体の本質を表現する重要な手段であった。この作品も、24色に分解された虹色のストライプによって描かれており、第11回サンパウロビエンナーレ展でブラジル銀行賞を受賞している。まるで裸婦が空中へ飛翔するかの様であり、時の経過を象徴的に表している油彩画の代表作と言えよう。(仲田耕三「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年09月20日掲載)
カテゴリー:作品
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
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