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おんなとふうけい 女と風景
静ひつで不思議な空間である。そして、その中に在る一人の美しい女。女の目は観る者の目を拒むかのように鋭く、冷めている。女と彼方の空を結ぶ宙に浮いた階段、あるいは地平線までも覆い隠して大海のように波打つ広大な敷布。「女と風景」と題されているが、実はこれらによって近景と遠景が結びつけられており、空間の均衡が綿密に計算され、保たれている。画面中央部で、右半分の画面が剥がれ落ちかけており、敷布上の果実の痕跡と相まって、時の経過をキャンバスの上に留めてしまったような作品である。精緻な画面構成が、絵の前に佇む者の空間把握を混乱させてしまう。そしてキャンバスと向き合った時、えもいわれぬ幻想的な世界へ誘い込まれてゆくのである。三尾公三はアクリル絵の具をエアーブラッシュで吹きつけるという技法で、新たな表現の道を拓いた。その洗練された画面は、現代の都市空間と無理なく融合している。(吉原美惠子「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年05月16日掲載)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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