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ちょうこくとかちょう 彫刻と花鳥
吉原は、具体美術協会との関連で語られることが多い。1954年に結成された具体美術協会は次々と実験的な表現を展開して、戦後の美術界に衝撃を与えた。この会で指導的な役割を果たし、若い新人を育てた吉原は、戦後の前衛美術を考える上で重要な位置を占めている。この作品は、吉原のきわめて初期の作品である。青空を背景に鳥と花、白い石膏像が描かれ、幻想のような印象を与える。この作品が制作されたころ、美術雑誌などを通じて盛んにシュールレアリスムが紹介されているが、この作品にもその影響が認められるだろう。その後、吉原は二科会で純粋抽象を発表し、戦後は具体美術協会でアンフォルメル、次いで円をテーマにした連作を発表している。初期から一貫して時代の最も前衛的な美術を手掛け、新しい美術の地平線を切り開いてきたと言えるが、この作品はいわばその原点ともいえる作品である。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年02月14日掲載)
カテゴリー:作品
ラスケとは?【 作家名 】 1892年から1898年、ウィーン工科大学でカール・キューニッヒに師事。1897年、イタリアに研究旅行。1899年から1901年、ウィーン美術アカデミーでオットー・ヴァーグナーに師事。建築ディレクター、ヘルマン・ミュラーのもとで実践を積む。最初は父親のアトリエで、後に独立して、賃貸住宅やウィーンの邸宅、とりわけ、ケルンテン、ドレスデン、メーレンのエンゲル薬局、などの建築に従事。キャバレー「ナッハトリヒト(常夜灯)」の内装と装飾。1904年、はじめてエッチングを試みる。1905年、ユングブント展に造形作家として参加、その際、室内デザインにも従事する。1907年、ハーゲンブントのメンバーになる。多くの展覧会設備のデザインを請負う。1910年、「ノアの箱舟」、1913年、「パラダイス」、「小鳥のお説教」。1911年から1918年、頻繁に旅行をする。第一次世界大戦の際には、戦争画家として様々な戦線に赴く。1919年、「ノアの箱舟」のフリーズ(壁面上部の帯状装飾)、エッチング「ファースト・インプレッション」。1920年、初めて劇場の演出を試みる。1924年、ウィーン分離派メンバー。1928年、ウィーン紙大賞を受賞。キュンストラーハウスのメンバーとなる。ウィーン市から1931年、1948年に受賞。トーマス・マン、ヨハン・ネポムック・ネストロイ、フェルディナンド・ライムンド、アルトゥール・シュニッツラーらの作品のリトグラフと本の挿絵を制作。 |
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