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かぞく 家族
麻生三郎は終戦後の文章のなかで、これまでの日本の洋画が「人間や生活には関係なく遊離していた」ことを批判し、自身の人間性に基づく絵画観を説いている。その言葉通り、彼の今日までの画業は、自己を厳しく見つめて、絵画に人間性を刻み込んできた生涯であった。大戦中に松本竣介や靉光らと新人画会を結成し、自分の表現に忠実であろうとしたこともその表れと言えるだろう。そして、彼の描いた作品自身が、何よりもそれを雄弁に物語っている。1959年に制作されたこの作品には、街だろうか、暗紫色の定かでない背景と共に家族の姿が描かれている。家族をテーマとするのであれば、あたたかい家族の団欒(らん)を描いてもいいわけだが、この作品はそうでない。表面的なきれいごとではなく、時代の現実のなかで生活する生身の人間の姿を、心理的な面まで掘り下げて描いている。彼の求めた「生活のある絵」のすぐれた一例と言えよう。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年10月18日掲載に一部加筆)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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