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かぞく 家族
麻生三郎は終戦後の文章のなかで、これまでの日本の洋画が「人間や生活には関係なく遊離していた」ことを批判し、自身の人間性に基づく絵画観を説いている。その言葉通り、彼の今日までの画業は、自己を厳しく見つめて、絵画に人間性を刻み込んできた生涯であった。大戦中に松本竣介や靉光らと新人画会を結成し、自分の表現に忠実であろうとしたこともその表れと言えるだろう。そして、彼の描いた作品自身が、何よりもそれを雄弁に物語っている。1959年に制作されたこの作品には、街だろうか、暗紫色の定かでない背景と共に家族の姿が描かれている。家族をテーマとするのであれば、あたたかい家族の団欒(らん)を描いてもいいわけだが、この作品はそうでない。表面的なきれいごとではなく、時代の現実のなかで生活する生身の人間の姿を、心理的な面まで掘り下げて描いている。彼の求めた「生活のある絵」のすぐれた一例と言えよう。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年10月18日掲載に一部加筆)
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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