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ぼし 母子
中本達也は自由美術家協会員として活躍し、第3回安井賞を受賞した画家だが、51歳という年齢で志半ばに没したため、いわゆる大家としての名声を得たわけではない。しかし彼の人間追求の画業は、前衛的な表現が隆盛となった戦後の美術史のなかで、独自の位置を占めている。彼の初期の作品には、病に倒れた母の肖像や、自然に鍛えられたたくましい肉体を持つ漁師を描いた作品があるが、褐色の色彩を塗り重ねた重厚な絵膚に、不安や苦悩と共に、生きることの素朴で純粋な意味をも塗り込めている。子と、子を抱き乳を吸わせる母親の姿を描いたこの「母子」も、そのような初期の画風を端的に示した作品と言えるだろう。彼の表現には、生まれ育った瀬戸内の島の心象風景と共に、母性への屈折した憧憬(どうけい)があると言われる。しかしその個人的でローカルなところに根を持つ彼の芸術が、戦後美術の問い直しのなかで改めて注目されている。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年01月24日掲載)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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