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ふじんぞう 婦人像
生前の林武は、構図についていくつかの著述を残している。そこには、天地の公理は右巻きだが、人間の公理は左巻きであって、その接するところがヘソであるといったことが書いてある。読み物としては面白いのだが、実のところ全く要領を得ない。ところが作品を見ると、林が一貫して構図を追求した画家だったことがよくわかる。やはり画家は作品を通じて語るものなのだろう。この作品は初期のものだが、すでに構図に優れた林の資質がよく現れている。見開いた目、黒く存在感のある髪、うねるようなブラウスのヒダなど、一つひとつは自己主張が強く、騒しいが、まっすぐ垂れた襟の直線、キャンバスの下辺で切れた手などがしっかりと要所を押さえ、見事なまでに一つの画面として統一されている。美しい婦人像とはほど遠いが、生き生きとした躍動感のある画面となっている。自らの構図法を求めて試行錯誤していた若い日の林の果敢さがしのばれるようである。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年09月27日掲載)
カテゴリー:作品
与謝蕪村とは?【 作家名 】 現在の大阪市に生まれる。江戸中期の俳人であり、画家。姓は谷口から与謝に改めた。蕪村は俳号で、画号は初め子漢。晩年に謝寅(しゃいん)とした。二十歳頃、俳諧を志し、江戸に下って早野巴人(はじん)に入門。巴人の没後、いまの茨城県など関東や東北を巡歴し、一七五一年(宝暦元年)、京都に居を結ぶ。丹後(現在の京都府)の宮津での滞在を挟み、以後は京都を拠点に活動した。絵画の面では、明清絵画のさまざまな画法を学び、南画の画法を吸収することで、自己の表現をつくりあげた。池大雅(たいが)とともに日本南画の大成者とされている。 |
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