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みどりとちゃのひと 緑と茶の人
日本の抽象絵画のパイオニアの一人である村井の作品は、抽象的な形で構成されたものだが、形式にとらわれない、自由でおおらかな表現を見せている。純粋な抽象画を求めていた若いころ、構成に失敗した作品の方に飽きのこないおもしろさを見つけ、人間臭さのある画面をつくり出す必要を感じた、と言う。彼が「形式的にどんなに新鮮で目新しいものでも、人間的な要素がまったく失われていたらむなしいだけだ」と語るのも、その追求の結果である。人間のイメージをもとに抽象化したこの作品も、このような彼の考え方がよく表れている。一つ一つの形を見れば抽象形熊だが、無機的な冷たさはなく、黒い骨格のような形で人体の形そのものを暗示し、さまざまな色彩に人間的な感情を込めている。ユーモラスな印象も受けるこの二人の人物が、何を思っているのか想像するのも楽しい。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年07月12日掲載)
カテゴリー:作品
バウハウスとは?【 美術用語 】 1920年代のドイツで近代デザインの中心地となった建築と応用美術のための学校。デザインと工業技術の間に橋をかける重要な役割をはたした。1933年にナチスの圧力で解散してから教授陣と学生が各地に移住したため、バウハウスの理念は多くの国々に広められ、1930年代と40年代における近代主義のシンボルともいえる存在となった。バウハウスの創設は、1919年に、旧ヴァイマール美術アカデミーとヴァイマール美術工芸学校がグロピウスによりひとつにまとめられたことに始まる。グロピウスの最初の思想は、すべてを包含する近代的で構成的な芸術を実現して、モニュメンタルな要素と装飾的な要素の分離をなくそうとするものであったが、さらに1923年には、工業的大量生産用のデザインを行う工芸家が重要であるとした。このため、バウハウスは産業界と密接に関係を持ち、多くの製品を生み出した。その特徴は非個人的で幾何学的で厳格なことであり、むだを省き素材を研究し、洗練された形を持っており、ヨーロッパの建築・応用美術に大きな影響を与えた。 |
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