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みどりとちゃのひと 緑と茶の人
日本の抽象絵画のパイオニアの一人である村井の作品は、抽象的な形で構成されたものだが、形式にとらわれない、自由でおおらかな表現を見せている。純粋な抽象画を求めていた若いころ、構成に失敗した作品の方に飽きのこないおもしろさを見つけ、人間臭さのある画面をつくり出す必要を感じた、と言う。彼が「形式的にどんなに新鮮で目新しいものでも、人間的な要素がまったく失われていたらむなしいだけだ」と語るのも、その追求の結果である。人間のイメージをもとに抽象化したこの作品も、このような彼の考え方がよく表れている。一つ一つの形を見れば抽象形熊だが、無機的な冷たさはなく、黒い骨格のような形で人体の形そのものを暗示し、さまざまな色彩に人間的な感情を込めている。ユーモラスな印象も受けるこの二人の人物が、何を思っているのか想像するのも楽しい。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年07月12日掲載)
カテゴリー:作品
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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