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あんたいとる UNTITLED
黄色いタッチがざわめく広い平面の奥に、彼の像がいる。見るなという拒絶のポーズなのか、表情豊かな仕草ががれてよく見えない。舟形の裂け目の中で、彼以外は塗りつぶされ、このぼやけた像だけを巧みに注目させようとする。自らの裸体を映像の断片として、いともいさぎよく扱うのだ。大がかりな舞台を設定した上で、カメラをめぐる作家の感性をスマートに匂わせてみせる。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
構成主義とは?【 美術用語 】 ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開された芸術運動。ウラジーミル・タトリンが1913年に始めた鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのを発端とする。現実の素材による非再現的構成という造形理念は、ロドチェンコなど多くの共鳴者を得て、構成主義という運動に発展し、モスクワの前衛美術界を、マレーヴィチの提唱したシュプレマティズム(絶対主義)と二分した。革命後は、革命政府の美術政策の推進勢力となり、絵画、彫刻をブルジョワ芸術として否定するとともに、鉄・ガラスなどの工業生産物の使用と社会的効用性を主張し、建築・デザイン・舞台美術などの分野にも拡がり、1920年には造形芸術の各分野をほとんど支配した。運動としては1919年頃から効用派と純粋造形派とに分裂し、純粋造形派のペヴスナー、ガボらは運動を離れ、効用派もその後産業との一体化を推進したが1930年代に政府より批判され終結したが、国外の抽象芸術運動に与えた影響は大きい。タトリンの「第3インターナショナル記念塔(模型)」はその代表的作品。 |
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