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あんたいとる UNTITLED
黄色いタッチがざわめく広い平面の奥に、彼の像がいる。見るなという拒絶のポーズなのか、表情豊かな仕草ががれてよく見えない。舟形の裂け目の中で、彼以外は塗りつぶされ、このぼやけた像だけを巧みに注目させようとする。自らの裸体を映像の断片として、いともいさぎよく扱うのだ。大がかりな舞台を設定した上で、カメラをめぐる作家の感性をスマートに匂わせてみせる。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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