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ふなになれるか 鮒になれるか
60年代に次々と実験的な作品を発表して、時代を代表する有力な作家として注目を集めた福岡道雄は、70年代に入ると一転して具象的な作品を作りはじめる。水平な台上に樹木や山、のんびり歩く牛などを配して、心象風景ともいうべき世界を作り出したのである。「鮒(ふな)になれるか」もこの世界に連なる一点で、静かに波打つ水面に鮒と、鮒の姿をまねる少年を並べて、少年の夢の世界を軽妙に造形化している。具象的ではあるが、これらの作品は既成の彫刻の概念ではとらえきれない。それまでの彫刻は、正面や見上げるような視点で鑑賞するのが普通だが、箱庭のような趣をもったこれらの作品は、のぞきこむことを余儀なくされる。また風景など福岡がとりあげる題材は、それまで彫刻の対象として顧みられなかったものである。作品のスタイルこそ変わっても、依然として福岡は既成の彫刻の概念を問い続けているのだろう。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年08月16日掲載)
カテゴリー:作品
塩川文麟とは?【 作家名 】 1808年京都に生まれる。1877年没する。生年には異説がある。父は、安井蓮華光院門跡の侍者。字は子温。幼名は隼人。通称図書。はじめ草章と号し、可竹斎などの別号がある。門跡に画技を認められ、岡本豊彦に師事して四条派を学ぶ。弘化2年(1845)に豊彦が没してからは、四条派を率い、明治初期までの京都画壇を代表する画家のひとりとなった。安政年間の御所再建に際して、常御殿などの絵画制作に携わった。明治元年(1868)、中島来章、円山応立、国井応文らと如雲社を結成して、京都の画家たちの結束を深めた。明治9年(1876)フィラデルフィア万国博覧会に出品。門人には、幸野楳嶺がいる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年、一部加筆有) |
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