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ふなになれるか 鮒になれるか
60年代に次々と実験的な作品を発表して、時代を代表する有力な作家として注目を集めた福岡道雄は、70年代に入ると一転して具象的な作品を作りはじめる。水平な台上に樹木や山、のんびり歩く牛などを配して、心象風景ともいうべき世界を作り出したのである。「鮒(ふな)になれるか」もこの世界に連なる一点で、静かに波打つ水面に鮒と、鮒の姿をまねる少年を並べて、少年の夢の世界を軽妙に造形化している。具象的ではあるが、これらの作品は既成の彫刻の概念ではとらえきれない。それまでの彫刻は、正面や見上げるような視点で鑑賞するのが普通だが、箱庭のような趣をもったこれらの作品は、のぞきこむことを余儀なくされる。また風景など福岡がとりあげる題材は、それまで彫刻の対象として顧みられなかったものである。作品のスタイルこそ変わっても、依然として福岡は既成の彫刻の概念を問い続けているのだろう。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年08月16日掲載)
カテゴリー:作品
山本鼎とは?【 作家名 】 1882年愛知県に生まれる。1906年東京美術学校西洋画科選科を卒業し、翌年石井柏亭、小林未星らと雑誌『方寸』を創刊する。1912年渡欧、1916年帰国、翌年日本美術院洋画部同人となる。1918年戸張孤雁と日本創作版画協会を創立して創作版画の発展につくし、翌年長野県小県郡神川村に日本農民美術研究所を設立。また自由画運動を推進するなど多方面に功積を残した。1920年日本美術院を脱退、翌年自由学園美術部教授となる。1922年春陽会創立に参加して会員となったが、1935年帝国美術院参与に推されて春陽会を脱会するが、1943年春陽会に復帰。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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