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おとことおんな 男と女
戦前から前衛的制作を試みていた鶴岡は、戦後の多彩な表現活動の出発点を形作った作家の一人である。1959年ごろ、鶴岡と鶴岡の友人たちは「いつもと違ったことをやろうじゃないか」と語り合って、画家である鶴岡は友人の彫刻家のアトリエで彫刻を試みた。そのアトリエには何人かの画家が通ったが、中でも鶴岡が一番熱心で、一日と明けずに通ったという。鶴岡はその時、大小あわせて5、6点制作しているが、一番大きなものがこの「男と女」である。この作品は切り抜いた鉄版を溶接して作った彫刻ではあるが、大がかりな切り絵だと考えてもよい。二つの頭は一つの体を共有していて、その体は男女の体の特徴を兼ね備えている。このような作品はある意味で余技とも言えるが、それだけに作家の抑え切れない制作意欲が現れている。また既成の枠にとらわれない鶴岡の自由な精神がうかがえるかのようだ。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年11月22日掲載)
カテゴリー:作品
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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