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とるそ トルソ
抽象的な形態による表現はすべて、極めて現代的であり、伝統的なものとは何のかかわりもないと考える向きもある。しかし、日本の木彫に新しい生命を吹き込んだ植木茂の作品を見れば、そのように単純化できない現代美術の幅の広さが理解できるだろう。植木は、「日ごろ仕事として木に向かいあっていると、木が自然物であるように、人間もまたそれに変わりないという敬けんな心が沸き出してくる」と言う。そして「自然と人間との和」を探るようにして鑿(のみ)を握った。彼の自然に対する精神は、長い伝統を持つ我が国の木の文化を支えた職人たちの精神とつながっているのである。この作品は確かに抽象的だが、「トルソ」と名付けられているように、人体を表したものである。彼は、人体をテーマにして現代的な形態を探究しながら、そこに日本文化の基層と結びつく、自然と人間の調和の願いを込めている。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年08月16日掲載)
カテゴリー:作品
バールとは?【 作家名 】 自然主義から表現主義の潮流の中で、この時代の最も重要な喜劇作家のうちの一人であり、印象主義の理論家であり、「ユンク・ウィーン」の代弁者でもあった。1909年に、アンナ・バール=ミルデンブルグ(ソプラノ歌手)と結婚。ウィーン、チェルノヴィッツ、ベルリンで学ぶ。ベルリンにてアーノルド・ホルツと親しくなる。1890年、ベルリン「自由劇場」誌に参加、1894年からはフリーの文筆家となる。また、リベラルな週刊誌「ディ・ツァイト」の発行人となる。1906年〜1907年、ベルリンのマックス・ラインハルトのところで演出家となり、1912年から1918年までザルツブルグで暮らす。1918年、ウィーン、ブルグ劇場の最初の劇作家となり、1922年、ミュンヒェンに赴く。彼の綱領的な随筆は、部分的には新しい様式の流れへと導くものであった。作家として彼は1900年前後の多くの文学的な潮流と取り組み、それらの提案者であり後援者として活躍した。彼の作品はオーストリア精神史の非常に貴重な記録である。 |
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