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もえるかお 燃える顔
1966年から1983年までの約20年間は「沈黙」の時期だった。この間、菊畑は、現在する100点をはるかに越える数の、発表されることを目的としない「もの」を作っていた。ものと作品はイコールでは結べない。菊畑のオブジェも意味も帯びることを拒んで、自らの表現の純粋性を追求する。ものはものとして発言する。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
吉田博とは?【 作家名 】 福岡県に生まれる。1887年に中学修猷館に入学。1893年京都に上り、田村宗立に師事。翌年上京して小山正太郎の不同舎に入り、のち明治美術会に加わる。1899年渡米。デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開き、翌年パリ万国博覧会に出品して褒状を受ける。1901年帰国。翌年太平洋画会の創立に参加し、1903年には再渡米。第1回文展で3等賞、第2回文展、第3回文展でそれぞれ2等賞を受賞。第4回以後しばしば審査会をつとめる。1947年太平洋画会会長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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