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はんがしゅうしがしゅうありのいるかお3ぴけのざんぞう 版画集〈詩畫集 蟻のいる顔〉3. ピケの残像
戦後の日本における銅版画の先駆者、駒井哲郎。十代のころから銅版画を始め、戦後、恩地孝四郎の一木会に入会して頭角を現し、一九五〇年の春陽会展では大きく脚光を浴びた。駒井が挿絵を担当して、五二年に刊行された『マルドロオルの唄』は、彼がその出発点から本と深い関係を持つ運命であったことを暗示する、記念すべき書物である。東京美術学校在学中からフランス語の勉強もしていたほど文学にも興味のあった駒井にとって、『マルドロオルの唄』の仕事は格別な思い入れを込めたものであった。訳文だけでなく、原典にもあたるほどのめり込み、自らの不勉強を嘆きながらの制作は、五一年、その年の初めに新たに入手した大きなプレス機で六月頃から始めた。当初十二点の予定だった挿絵は出版元の事情で五点(表紙を含め六点)となる。三百五十部限定で六点、計二千百枚の刷りを一人でやり終えるまでに約半年かかったという。その後も駒井は、安東次男や埴谷雄高と組んだ挿絵本を手がけ、また、書籍や雑誌に数多くの挿絵を寄せた。安東次男との詩画集『からんどりえ』を出版した翌年の一九六一年、駒井は「未だ見果てぬ本の夢」と題した小文を発表している(「本の手帖」一九六一年四月号 昭森社)。そもそも銅版画を始めたきっかけが、中学生の頃に限定版の本を出したいと思ったことであった、と述べる駒井。その見果てぬ夢にとって五十六歳の生涯は、はたして長かったのか、短かったのか。『蟻のいる顔』は、病が発覚する前年の一九七三年の刊行。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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