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しーそー1 シーソー1
1931年広島に生まれた吉原は、当初画家として出発したが、25才の時、版画を手掛け始める。1968年の第6回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞を得たこの作品は、様々な表現を試行錯誤してきた彼の初期の制作活動の中で、記念碑的な意味を持つものである。同一版をユニットとして四方から突き合わせるという印刷プロセスは、観る者に作家の行為を生々しく追体験させる。宙空に突き放されたモチーフの持つ繊細な性的魅力は、物体(=版)として取り扱われる過程で凍結し、非人間的なものとして画面に定着されてしまう。一方で、操作された画像は、果てのない空間を不安定に漂い、どこまでも浮遊していくのである。現代社会の非人間性、更にそこに囚われ、身じろぐ現代人の感受性を、作品は視覚化する。版画という一種冷徹で、意外性を秘めた「工程」が、そこでは大きな役割を果たしていると言えよう。(竹内利夫「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年12月13日掲載)
カテゴリー:作品
平櫛田中とは?【 作家名 】 1872年岡山県井原市に生まれる。1893年大阪で人形師・彫刻家の中谷省古に木彫を学ぶ。1897年上京し、高村光雲に師事する。1902年新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが結成した三々会の会員となる。1907年第1回文展に「姉ごころ」を出品。また、日本彫刻会の結成に参加する。翌1908年には、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品する。1914年日本美術院の再興に参加し、第1回展に出品、同人となる。1937年帝国芸術院会員に、54年文化功労者になり、62年には文化勲章を受章する。1979年東京都小平市で死去。「活人箭」は禾山和尚の臨済録提唱の中からとったテーマ。鹿を追っていた猟師がわけあって僧門に入り、後に石鞏(せきぎょう)禅師となり、やってくる雲水に矢をつきつけながら問答をした。皆答えられなかったが、三平という雲水が胸元を広げて、「活人箭か、殺人箭か」と答えた。この作品は、石鞏が矢をつがえている場面で、その描写力と造形にひそむ厳しい精神性が高く評価された。また、釣糸を垂れる太公望を表わした「釣隠」には、田中独特の彩色がほどこされている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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