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あるしゅのかんけい ある種の関係
池田満寿夫は、版画の制作だけでなく、絵画、陶芸、小説、映画など多様な活動をみせている。しかし、かれの芸術家としての原点が版画にあることはまちがいない。1960年の東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞を受けた後、国内外の展覧会で受賞を重ね、1966年にはヴェネチア・ビエンナーレで版画部門国際大賞を受賞し、今に続く華々しい活躍の地歩を築いた。<ある種の関係>は、大賞受賞作の一つである。この作品は、銅版画の技法のなかでもドライポイントとルーレットを主体としている。ドライポイントでは鋼鉄製の針で直接、銅板に描画するため、描画された線に沿って細かいささくれができる。彼は、そのささくれがつくる味わい深い線とルーレットによる色面を組み合わせながら、現代の人間を諧謔(かいぎゃく)味を加えて描きだし、高い評価を得た。満足な技法書もなかった時代、試行錯誤の探求が開花したのである。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年09月19日掲載)
カテゴリー:作品
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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