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きつねとぶどう(ら・ふぉんてーぬぐうわ) 狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)
日本版画倶楽部を結成するなど創作版画運動を推し進めていた長谷川は1918年単身渡仏、以後、死ぬまで一度も帰国することなく制作に打ち込み、フランスで巨匠としての地位を築いた。彼の最大の業績は、長く忘れられていたマニエール・ノワール(メゾチント)という銅版画の技法を復活させ、そこに現代の生きたいのちを吹きこんだことである。〈狐と葡萄〉もマニエール・ノワールによって制作されている。ラ・フォンテーヌの寓話集からヒントを得た葡萄とおもちゃの狐が、この技法独特のち密な表現と厳密な画面構成によって、古典的な品格を醸し出しながら描かれている。彼の作品には、洗練されたフランス的感性とともに、微妙な白黒の階調に東洋画に通じる要素を見いだせるが、古い技法を自己のものにしようとする長い誠実な探究によって、西欧とも東洋とも言いがたい独自の作風を生み出した。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年10月11日掲載)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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